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2022年11月24日

本場のクリスマス精神から感じ取る〈欧州社会が学問的な理由〉

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ドイツでクリスマスを過ごすと人生観が変わります。雪が積もったクリスマスのことを「ホワイトクリスマス」というのは日本でも馴染み深いですが、それに対して本場では積雪していないクリスマスを「緑のクリスマス」と呼びます。

これは、モミの木が緑色か白色かで聖夜の印象がガラッと変わるためで、一度でも本場でクリスマスを体験すれば、そういう呼称が付いたことに納得します。しかし、クリスマスから垣間見える本場のキリスト教の国々の〈社会的精神〉の深さは、学問や生活の成り立ちにも深い影響を与えているのです。

何が日本と違い、それが私たちにどう影響しているのでしょうか。

新旧の要素が混然一体となった欧州都市

伝統的な「キリスト教の要素」は社会生活を暖かくする

プラハなどの歴史ある欧州古都を訪ねると、必ず「旧市街」があり中世以来の伝統的な街並みが残っていて観光客を賑わわせます。その一方で、だいたいの大都市には高層ビルが立ち並ぶ新地区もあるものです。このように新しいものと古いもの、革新と伝統が混然一体となって魅力を放っているのは、人々の生活や文化、考え方と制度においても同様です。

中世から続くキリスト教の伝統が色濃く残る社会は、今なお「キリスト教社会」です。テクノロジーが飛躍的に発展する一方で、多くの文化的・社会的・人間的側面においてキリスト教独自の考えが反映されています。

たとえばドイツは、「人として生まれた以上、〈偉い〉も〈賤(いや)しい〉もない。人間は、みな平等だ」という考えを9割以上の人が持っています。それをとりわけ顕著に感じることができるのが、クリスマスの時期です。「成功者、富裕層、大学教授や医師は、貧しい人や不幸な人に施しをしなければならない。ただそれだけで、富裕者や成功者が偉いという事はない」というヨーロッパ的な精神を、街のあちこちで、ひしひしと感じるのです。

それが、人生そのものを、暖かく輝かしくしてくれるのです。「職場の中」「学校の中」だけでなく、社会全体が兄弟愛や助け合いによって支えられ、全員が街と社会と溶け合っています。そのため、移民難民ホームレスであっても、「いじめを受けて社会から爪はじきにされる」ということは起こらないのです。

「同じ社会」を共有し、「同じ街」で暮らしているという意識が強いからこそ、街ですれ違ったときに知り合いでなくても挨拶します。また、初対面でも話しかけられて話に花が咲いたり、酒場に行けば政治やスポーツの議論ができるのです。ですから独身者、独居者、老人でも「孤独で寂しい」ということが起こらないのです。

先進的な思潮は学問追究の態度を生み出した

その一方で、ドイツは非常に先進的な思潮を取り入れた、身分制社会です。大学教授とPh.D.の地位が高く、医師と法曹がそれに続きます。教授と博士はもちろんのこと、医師や法曹も英語が堪能で、常に英語によって世界の最新情報を取り入れ、最先端の知識を学んでいます。

アメリカやイギリスが現代世界をリードし、カナダのような英語圏が文化的・社会的に進んでいるのは当然ですから、非英語圏としてドイツやフランスは一つの規範になります。

そのため、「社会の第一線に立っている指導的人物」と見なされる教授と博士を頂点に、医師と法曹が続く「身分制エリート社会」を形成しています。企業文化が強い日本の「一億総中流」という思潮とは正反対ですね。

18~19世紀の西欧において、「市民」とは上から10パーセントの経営者や医師でした。そのような「エリート社会」はまだ続いています。

その根拠を考えてみたいと思います。まずドイツ人は、精神的にも肉体的にも、アジア系(モンゴロイドなど)より強靭です。といっても、ゲルマンとアングロサクソンはDNA的には10パーセントしか変わりませんから、ほぼ「アメリカ人=イギリス人=ドイツ人」と考えて良いのです。

彼らは、「ストレスや心配によって胃が痛くなる」ということはありません(肥満や糖尿病はあります)。また、精神的にも屈強で、些細なことは気にせず、明るく活発に会話します。そこには「相手の意中を察して、そっとしておいてやる」というような風潮はなく、何でも相手に話し、確かめて、合意を形成しながら全てを明らかにして、ことを進めていきます。

そのため、肉食文化や古代ローマ帝国の衰亡が反映された社会の影響もあって、「考えたことや思ったこと、および行動の根拠を相手に伝えないと、相手を信頼していないことになり、深い絆が成熟されない。むしろ失礼である」という思想および社会的文化に至りました。

屈強であるため、相手から真意や本音をぶつけられても怯むことがないのです。むしろ、相手が全てを伝えてくれて嬉しい、と思うわけですね。相手を慕い、敬い、信頼しているからこそ、何事も隠さずに相手に打ち明けるわけです。「手の内を隠しておく」というような姿勢や、以心伝心といった思想とは正反対です。

それゆえに、キリスト教における「神の創造した世界」の究明という知識層の使命感と相まって、「気になることは何でもとことん議論して、思考を煮詰め、原因を突き詰めて、真実を究明していく」という慣習が生まれたのです。そこから、「議論好きなドイツ人、フランス人、イギリス人、アメリカ人」という、良く知られた欧米社会像が結ばれました。

そしてそれは、「最新の知見や見識を追い求め、古い常識を看破し、誤った見方を塗り替えながら、常に真実を解明していく」という学問的姿勢に直結しています。「新しいものをどんどん取り入れ、古い慣習や制度を看破していく」という先取の精神も、そこに芽生えました。

その結果、マックスウェーバーも『プロテスタンティズムと資本主義の精神』で述べているように、「勤勉、倹約、節制、道徳、貯蓄、謙虚さ、法と秩序」を重んじる「富裕市民層」と「教養市民層」が生じ、〈富裕層〉ならびに〈エリートや知識人〉と、そうでない大衆との決別に繋がりました。〈富裕層〉と〈知的エリートたる教養市民層〉には、職種などの違いはありますが、勤勉や学識を重んじていたなど共通点も多いのです。

 

古き良き伝統を非常に重んじてきた日本

日本に色濃く残る伝統的思想は発展の足かせに

その一方で、日本は「古い制度や形式、文化にこだわる」という慣習が強いようです。「何かを達成し、稼ぎをあげるには、道徳的に誠意を見せて、精を出して骨を折る必要がある」という因習的観念がその典型です。たとえばフランス人やドイツ人は、食器を洗うのに必ず食洗機を使います。「機械ができることは、機械にやらせる」という合理的思考ですから、自然に社会のデジタル化も発展するのですが、どうしても私たちは「丹精を込めて手で洗うことが美徳」と感じてしまいます。

そして、文学的伝統が強いのも特徴です。たとえば、「本を読めば頭がよくなる」という因習がそのまま残っています。教育学的、心理学的に最新の学問的知見に則った指導が行われる西欧・北米とは大きな差がついています。

たとえば、アウトプットや表現のトレーニングは講義や輪読とは別に必要であること、リズム感の体得や外国語の文法・訳出も文章力には重要であることも判明しています。

また外国語学習には、少人数グループ授業や、スピーキングによるコミュニケーションが重要であることも判明しています。日本における英語の授業で「冠詞」から入るのも、明治時代に「19世紀までの西欧における古典語学習」の範をとったままです。

西洋人が悪い、日本人が悪い、という本質主義的枠組みではなく、明治時代に輸入した教育法や教育制度をいつまでも大切にしているのが良くないのです。その傍証として、院卒人材や予備校講師が著した昨今の先進的な英語参考書では、欧米の最新の研究に倣って、「冠詞」の章は後半に置かれています。

また別の一例として、教養学部や、社会科学部、国際文化学部においても、文学部卒の文学系や日本史学の教員が多いことも挙げられます。

また、社会学では英語の論文で最新の学問的知見が随時更新されており、英語圏でなくてもドイツ語圏やフランス語圏の社会学者は、英語によって更新される科学的知識を追いかけています。社会学で、いつまでも江戸時代の文学や日本文化を追いかけていてはダメでしょう。自然科学が発展している日本で、人文社会科学の発展はこれからです。

それと関連して、いつまでもフロイトを信じ込んでいる医師も多いです。フロイトは医学的・自然科学的には捏造であることが証明されており、英語圏やドイツ語圏を含め、本場の医師や研究者でフロイトの言ったことを真面目に受け止める人はいません。

さらに、日本の医師は、まだ「広汎性発達障害」という「時代遅れで、本場で排除されている」診断名を用いています。新しいもの、最新の科学を積極的に自ら進んで取り入れていく姿勢が足りないのです。

ただし、習熟した医師や研究者なら、和魂洋才、そして和洋折衷の優れた精神を見せることもあります。たとえば、「確かにフロイトの言ったことはでたらめであるが、フロイトが提示した〈性に対する社会的抑圧〉、それによる精神疾患の招来、および次世代の社会学者に影響を与えた〈管理社会における精神的抑圧〉という〈観点の提示〉は完全に否定できるものではない。フロイトに代わる天才的学説がない以上、彼が言おうとしたことを、批判的科学的にくみ取って診断・治療に用いればよい」というようにです。

少し話が変わりますが、明治時代にイギリスやドイツから取り入れた「医師・弁護士」の地位が高いという制度が変わりません。ですが、語学を駆使して最先端の見識を学び続け、社会を牽引していく役割を担う博士号取得者は、理系分野を中心に発展してきています。これから文系分野においても同様の進展が見られます。

医学部の中には「語学力」「英語力」「国際性」「国際的センス」「海外研修と国際交流」「短期留学」「異文化理解」「海外の文化的医療的背景を知る」を強靭に推進することを掲げている医学部も少なくありませんが、やはり医師になると英語の論文や新聞記事を読まなくなってしまうのが現実のようです。

決定的な日本の改革案を見いだせないでいる官公庁を救うためにも、まず医師と法曹が語学堪能(主に英語)になって、博士号取得者と同じように「先取の精神を持ち、新進気鋭の覇気をもって、最新の英語論文を追い続け、学問的知見を社会に還元できる学者」になることが必要です。

 

日本的美徳は捨てなくても良い

そうはいっても、日本らしい美点も社会には多く残っています。たとえば「お正月」の凛として爽やかな雰囲気や精神性は、ヨーロッパでは味わえないものです。

私はベルリンのブランデンブルク門でニューイヤーを迎えたことがあります。夜11時には新年を祝う盛大な花火が始まり、早朝5時まで続きますが、やはりキリスト教の国ですから、「キリスト降誕と相互扶助の神聖な時期」の延長という雰囲気に包まれ、クリスマスの聖なる空気の残滓がある一方で、「新年」だからという清々しさはないのです。早朝4時くらいになると、みんな寒くて眠くて、三々五々、帰路に就きます。

元旦を迎え、初日の出を見たり、書初めをしたりして、初詣に行く。顔を合わせた人と信念の挨拶を交わしたときに生じる、「今年こそは心機一転、一念発起だ。初心に帰って、がんばろう」というような、襟を正したくなるような清冽な感情は日本ならではですね。この点、シンガポールを含めた中華圏にある「旧正月」も興味深いです。

また、京都の伝統と見なされるような、「エゴや甘えを許さず、厳しく自己を律することを求める」という姿勢も、中世までは頑として屹立していたものの現代の欧州ではほぼ失われていますが、人間が社会的存在である以上、個人の研鑽と飛躍に貢献することもありますね。

そしてもちろん、「相手のことを思いやって繊細に接する」「相手の心中を無言のうちに察する」という日本的美徳も、女性が活躍する現代においてはなおのこと素晴らしいものであると国際的に評価されています。

余談になりますが、まだ私が二十歳の頃、ドイツ人の中年女性が打ち明けてくれたことありました。曰く、「ドイツは戦争に負けたし、屈強なドイツ人は弱音を吐いてはいけないと、家でも学校でも教えられて育った。でも、思春期の年頃は、男性にはもっと繊細に接してもらいたかった。なんでもストレートにずけずけ言われたのは、確かに西欧的ではあるけれど、傷つくこともあったわ。」

 

 

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